妄 想。
ある日、のりおは、弟のまことを自転車の荷台に乗せて山の田んぼに向かっていた。曲がりくねった上り坂の山道をしばらく自転車を押しながら登っていった。ようやく平坦な道に差し掛かった。「よし!まこと、後に乗れ!。」勢い良くペダルをこぎだして、みるみるスピードが上がった。
まことは冷んやりとした木陰の道の心地良い風を感じていた。その途端、はしゃいでバタつかせたまことの足が突然、車輪の中に巻き込まれた。「痛い!。痛い!。止めてー!。」 急にペダルが重くなったので(変だな?。)と思っていたが、大声で叫ぶ弟の声に驚いて、のりおは慌ててブレーキをかけた。
靴が脱げ落ち、スポークに激しく何度も足を挟まれたまことの足は、みるみる紫色に腫れ上がり鮮血が吹き出してきた。激痛で泣きじゃくるまことに「泣くな、男だろー!。」と、弟を叱りながら、新品のジャンパーのシルクの裏地を何度も引き裂いては、足に巻いて手当した。その裏地の絹布の裂ける音が、稲妻の音のように山に響いた。
やがてまことはのりおに背負われて登って来た。母のチカは心配そうにそのいきさつを聞いた。チカは「棚田の一番上の最も見晴らしの良い場所にまことを連れて行くように。」と促した。
のりおは、その場所にむしろを敷いて怪我した弟を降ろした。「ここに座ってろ、な。」「…うん。」 しばらくは稲作の仕事に忙しく働く母とのりおの姿を見降ろしながら、まことは一人でぼんやりと過ごした。母の脱穀機のペダルを踏む音が絶え間なく聞こえていた。
まことの傍に元気に跳ねてやってきた土蛙たちを見つけ、しばらくは飽きもせずに、いつまでもうらやましく見ていた。やがてまことは、暖かい日差しを浴びながら一人でとりとめのない空想にふけっていた。
(…大男の登る階段の棚田。草の絨毯。天からの、ひばりのさえずり。巨大な牛のような山。綿菓子の雲…。) そんな大自然の風景を見ながら、何故か不思議な妄想が次々に浮かんでくるのだった。
山の時間は瞬く間に過ぎていった。陽が傾き、カラスが鳴きながら帰っていく。まことの心には、何故か空虚なやるせない思いが漂って仕方が無かった。
夜明け前。
まことは中学生になった。だが学校の授業に全くついていけなくなり、どんなに努力しても、機敏な動作が出来なくなった。精神も肉体も何一つ自分の思うようにならないもどかしさを感じるのだった。
ただ新聞配達だけは、自分の義務のように黙々と毎日続けていった。 いつも朝五時には母に起こされ、眠い目をこすりながら降りて行くと、もう父は朝食を食べて出かける用意をしていた。「お早うー」まことは眠そうに言いながら、そのまますぐ出ていった。
冬の間は、川と道の境がわからないほど真っ暗であった。暗闇に目をこらしながら、一軒一軒の家の戸のすき間に新聞を差し込んで配っていった。納骨堂のそばを通るまことをいつも忠霊塔が見下ろしていた。
誰かに見られている霊気を感じた。納骨堂の階段を通り過ぎようとする時、いつも背中に何かがすがりついて来るような気配を感じた。まことは怖くなると、ゾクッと身震いをしながら一目散に走って通りすぎた。この村の家々には戦死した遺影が玄関から見えた。
配達に来たまことは、見下ろす遺影に目を合わせないように玄関から新聞を座敷の畳に投げこんだ。背を向けたその瞬間、遺影から抜け出してすがりついてくる霊の気配を背中に感じると、忌まわしいイメージを必死に打ち消して、後も見ないで肩で霊をふり切るようにして次に向かっていた。
まことが新聞を配っている頃、父の乗った蒸気機関車が通り過ぎて行った。「シュシュシュシュ…」真っ白な煙りをモクモクと出して走る姿を見たくて、その時に一番良く見える場所に行こうと急いで配るのだが、いつも間に合わなかった。
当時「朝刊太郎」という歌が流行っていて、雨の日などまことが傘をさして配達にやってくると、朝早くから待ってるお婆さんがいて「今日はしろしかねー。毎日感心やねー」と言って優しく声をかけてくれるのだった。時々ミカンをくれたりして励ましてくれることがあって嬉しかった。
暗黒時代。
まことは全く勉強をしなくなり、成績は最下位になった。それでもゼンだけは、親戚の人が来る度に、昔取った「百点の答案用紙」を出して来てしきりに自慢した。まことは祖母に過去の自慢しかさせてあげられない事を申し訳なく思った。
幼いころから仲の良かった友達も、幼稚な心を引きずったまま成長が止まったまこととは話が合わず、だんだん離れていき、仲間はずれにするようになった。 すっかり自まことを無くしてしまったまことは、次第に言葉少なくなり自分の殻に閉じこもっていった。
やがて無口になったまことは、同級生から愚鈍でおとなしい弱い人間と見られるようになり、まるで奴隷のように色々な無理難題を命令され、いじめられるようになった。 この時から極度の対人恐怖症と強い人間不まことに陥っていった。
ある下校中、まことは同級生にいじめられながら帰って来た。家まで必死に逃げてきて、ハアハアと息を切らせてドアを閉めた。ゼンはただならぬ様子を見て不憫に思った。「まことー、お前、顔色が真っ青だぞ…」今にも泣きそうなまことの頬をそっと撫でて心配した。
(何故、僕だけがこんなにもの覚えが悪く、意志薄弱の落伍者になってしまったのだろうか…?)まことは一人で悩み続け、性格がどんどん暗く沈んでいった。(学校に適合しない自分は、果たして生きている価値があるの…?。僕はこれでも生きていると言えるの…?)白痴のようになってしまったまことは、自虐的になり自己卑下ばかりするようになった。
この頃、兄ののりおは東京に行ったまま、何年も帰って来なかった。思春期の悩みを一番相談したい時、頼り甲斐のある兄ののりおの姿はもう無かった。無気力の中学時代を終えようとする頃、まことは「美術学校に行きたい…」と母に言った。
「ばってん、絵では生活は出来んとよ」チカはきつく忠告した。そう言われると、もう何を目指して進めばいいのか判らなくなった。自分の将来を決める意志を無くし、ただ母の希望する方向を言われるままに受け入れ、工業高校の機械科に進むしかなかった。
しかしまことは鉄工所の仕事が嫌いだった。どう考えても未来に希望を持つ仕事ではなく、気が重くなるだけであった。
いじめられた心の傷を癒やせたかも知れない「絵の道」を諦めたとき、「自分の道」が全く判らなくなってしまった。白痴化した心は無味乾燥のまま枯れていった。まことの青春時代は、希望の光を見い出せないまま、暗い空虚な日々が繰り返されていくばかりだった。
孤 独。
まことは高校一年生になった。 ある日、まことが玄関の植木に水をやっていると、小学校の担任だった末松先生があちらから歩いて来ていた。まことの姿に気が付くと「おーおー」と驚いて近寄って来た。まことも何か言おうとしたが(あ…先生…)と言ったきり言葉を失った。
「おー今井くん、懐かしいねー、今どうしてるの?」まことはすっかり緊張して口ごもってしまっていた。その時、先生の声に気がついてチカとゼンも玄関に出て来て挨拶した。 「まことは今、機械科に行っています」母が代わりに答えた。末松先生は相変わらずおとなしいまことを見ながら、せっかくの絵の才能が生かされない方向に進んでることを残念に思った。
まことは末松の小さい頃に似ていた。いつもおとなしく、黙々と絵を描いていたまことを心にかけて、特別に絵の指導をしたことがあった。(まことが元気が無いのは、おそらく選んだ進路のせいだろう…)そう思うと何か可哀相になった。(ほんとにこの道でいいの?)まことをじっと見つめる先生の目はそう聞いていた。
高校時代の三年間、まことは真面目に教室の席に座っていたものの、冷たい鉄の話ばかりの講義などほとんど聞いていなかった。ぼんやりと窓の外を眺め、空想ばかり追って過ごしていた。
休み時間が来ても、机に顔を埋めて眠ったふりして時間が過ぎるのをただぼんやりして暮らした。(自分と話が合う友達なんか一人もいない…)
まことの心は貝のように閉じていった。(たった一人でもいい、言葉を交わさないでも、心の通じ合う真実の友が欲しい…)叶わぬ夢と知りながらも、見果てぬ幻想を描いていくようになった。 本来、一番ひかり輝くはずの青春時代に、まことだけが闇の中に置き去りにされた。
(いつの日か自分の心の闇を取り払って解放してくれる、救世主のような存在が現れないだろうか…)いつしか誇大な妄想を待ち続けるようになり、「救いの叫び」を胸に秘めた沈黙の日々が悶々と過ぎていった。
反復地獄。
まことは疲れて帰って来る両親に心配をかけたくなくて、家族の誰にも心の悩みを打ち明けることが出来なかった。「あいつは白痴か…?」「あいつは何のために学校に来てるんだ・・?」
聞こえよがしにいろんな陰口を言われても、心を石のように閉ざして、黙々と学校に通った。この辺のふてぶてしさは、新聞配達で鍛えられた忍耐強さが、いつの間にか根づいていたのだろうか。
授業時間、ぼんやりと先生の言葉を聞いていたが、気になることを思いつくと、その言葉を何回も繰り返して反復する病気は、高校になっても治らなかった。一度この状態に入ると、全てがその渦に巻き込まれ授業の内容が台無しになった。
時間を浪費する反復地獄に入りそうな予感がした時、他のことを必死に考えて、気持ちをそらす戦いを人知れず繰り返していた。だが結局、その努力は一切無駄に終わるのだった。
地理の時間だった。先生の講義をうわの空で聞きながら、何気なく地図帳を開いて見ていたが、ふと日本地図に目が止まった。 その姿は「産みの苦しみにもがく女性」の姿のように見えた。
日本の地形が、意志を持った者によって造られた、「美しい生き物」に見えた。(何故こんな不思議な形をしてるのだろう…?)いつまでも見て考えていた。
英霊の塔。
まことは完全に言葉を失った。人が近寄って来ても、喉に何かがつまり、声がかすれて話せなくなった。 自閉症と強度の対人恐怖症にかかり、人前に出ると心の鎧を硬く着て構えた。 まことは、自分の心が仮死状態になってしまったことについてうまく説明できず、どうしても人に相談できなかった。
人を傷つけ悩ませる自分の存在を感じ、苦悩のどん底に落とされていった。友人、兄弟、両親、親戚、全ての人がまことに近づくと、理解できない沈黙の中で、途端に苦しんでいくことを感じた。
夏休みになって、親戚の人たちが家に遊びに来たが、まことは全てに自まことを失い、意志の疎通が完全に出来なくなっていた。(どうせ自分は、みんなの邪魔者なんだ…)みじめな気持ちになり、その場に耐え切れなくなると、裏山に逃げるようにして登っていった。
丘の上には「忠霊塔」がそびえ立っていた。 淋しくなるとまことはいつもここに来るのだった。塔の前面には、殉死した若き兵士達の名前が刻まれた銅板がはめ込まれてあった。まことは、叔父さんの名前を捜して指で撫でた。何故か不思議に心が安らぐのを感じた。
この塔に来る度に、床の間に置いてあった寂しげな兵士の顔を思い浮かべながら、「今井芳喜」という銅版の名前を指で撫でる癖がついてしまっていた。 いつの間にか、叔父の名前の部分だけが、ひときわ光り輝くようになった。
まことは、それから、いつもスケッチブックを持って忠霊塔に登った。石碑の上に座り、そこから見降ろす海岸の風景を描くふりをしながら、いつまでもぼんやり時を過ごした。
ある日、姉の信子がそんなまことの姿を見つけて聞いた。「まこと、あんたいつもぼんやり独りぽっちでいるけど、充実した生活してるとね?。」「充実しているよ。」「うそー…。」 信子は、まことの言葉の意味が理解できなかった。
(明日に道を聞かば、夕べに死すとも可なり…。)
(人間とは…?。人生とは…?。憎しみとは…?。罪とは何ですか…?。)まことは言葉を失ってから、人間関係に悩み、真夜中に一人、この石碑の上に来て、闇に向かって何度も尋ね求めていた。 (自分の身に起きた、不可解な謎を解いてくれる「真理」に、もし…出合うことが叶うならば、家族、友人、そして大切な恋人までも、全てを捨てても構いません…。)
そのことを心の中で思った時、まことはこの忠霊塔に漂う何か巨大な霊に包まれたような気がした。人生の意味を知ること無く、若くして散っていった「無念の英霊の魂」とひとつに重なっていった瞬間だった。
だが天は、このまことの願いを、そう簡単には叶えてはくれなかった。やがて辿るであろう「光への道」の途上において、悪なるものと善なるものを混ぜながら、小出しに三段階で与えられていくとは想像もつかなかった。
だがまことは、「世を惑わしながら現われて来る、悪の存在の中から、正しい真理だけを確実に選り分けてゆかなければならない。」という大切な使命が託されていたのだった。まことが、この英霊と本当の意味で一体となるためには、先人の通過して来た道をたった一人ですべて乗り越えてゆかなければならなかった。
(最近、まことは殉死した芳喜にますます似て来たばい…。)ゼンは、もの静かになった孫を見ながら、ふとそう思った。幼い頃から、まことは、時々、芳喜に似たしぐさをすることがあった。
まだ幼かったまことが、小学校から帰って来て、ゼンの姿を家中捜しまわったあげく、長い時間をかけて遠い畑までやってきたことがあった。遠い昔の不思議な出来事を思い出していた。
-------- 回 想
あの日、まだ幼いまことは畑仕事をするゼンのそばで遊んでいた。 ゼンはいつも独り言を言う癖がついていた。 その日もまことのいることを忘れていつの間にか遠い昔の世界に戻って(ブツブツ…。)と独り言を言いながら畑仕事をしていた。
「ふーん。そうね。うんうーん、そうたい…。」 傍で遊んでいたまことは、ゼンの話す声に、(誰か来たのかな…?。)と思って振り向いたが誰もいなかった。
(婆ちゃんはいったい誰と話しているのだろう…?。)不思議に思って、その相手を知ろうと耳をすまして聞いていた。独り言を言いながら畑仕事をしていたゼンが突然叫んだ。「芳喜ー!。」 まことは「うん!…。」と、反射的に答えた。「ハッ?。」ゼンは飛び上がるばかりに驚いて振り向き、放心したようにまことの顔をしばらく見つめた。
まことは、自分を見つめるゼンの目に、戸惑いと懐かしさが混じっているのを子供心に感じた。 やがてゼンは気まずそうにニッコリ笑うと、何事もなくまた仕事を続けた。
(まことは、芳喜の生まれ代わりかも知れない…。この子に何かが起こった時は、おれが守ってあげなければ…。) まことも昔は、ゼンを自分の母親と勘違いしていた時期があった。幼い頃からゼンのしぼんだ乳房を吸って育ってきたのだった。
ある日、畑仕事をしているゼンに、天からの不思議な言葉が聞こえて来た。(ゼンよ、孫のまことは、芳喜と一緒になって、やがて偉大な使命を果していくようになる…。)
だが、ゼンは、この閃きのような「啓示」の真の意味が分からなかった。
それから、しばらく経った。まことが忠霊塔で一人で座っていると、ゼンと信子が仲良く何か話しながら登って来た。「おおっ、まこと、ここで遊びよるとね。」「うん…。」ゼンは、まことがいつもよく一人で忠霊塔に座っているので不思議な気がした。
「まことは、将来、立派な仕事をするとぞー、ねーっ。」ゼンは優しい目でまことをじっと見ながら突然、信子に聞かせるように
妙なことを言いだした。だが、信子は弟の学校での様子を知っていた。信子の友達に、まことと同じクラスの弟がいたので、まことが教室では白痴状態にあることを聞かされていたのだった。
「何ね、まことは精神が弱いとよ!。」ゼンはまことのことを悪く言う信子の言葉を遮り必死にかばった。「なん言いよるとか!。まことは立派な人間になるとぞ!。」「なんね、婆ちゃんは、まことが学校でみんなに何て言われよるか知っとるとね!。」「しゃあらしか!。お前なんかには判らんと!。」
たちまちゼンと信子との激しい口喧嘩が始まった。「婆ちゃんは、まことが学校でどんなふうに過ごしているか知らんっちゃろうが」「おお、知らん知らん!。しゃあらしか!。これ以上言うなー。お前はー!。」とうとうゼンは怒って一人でさっさと降りて帰っていった。 まことは、そんなゼンと信子の不可解な言動を、黙ってただ見つめていた。
排他的人間。
やがてまことは、高校を卒業して博多の鉄工所に勤めるようになった。旋盤で鉄の部品を削る単調な仕事だった。毎日、創造性を否定され、機械の歯車の一部になることを要求された。ノルマは一日三百個だったが、どう頑張っても、二百個も削れはしなかった。
(生きてゆくための仕事は辛いものだ…。) ここでも皆の輪に入れず、社会に適合しない自分に悩み続けた。仕事をしてる間はいいが、孤立化する僅かな休憩時間が、たまらなく苦痛だった。
ある休憩時間、まことはいつものように旋盤の前にポツンと一人しゃがんでいた。 その時、少し離れた旋盤工の一人が、手招きしてストーブの方に来るように勧めた。一年前から寮に入って働いていた広田という若い青年だった。
やがて彼の優しさに惹かれて寮に入り、その青年と相部屋になった。 社会に出て初めて出会った友人であった。寮の中でも皆に馴染めず孤立化していたまことを食堂に誘って「おにぎり」を一緒に作ったり、やさしく輪の中に入るように導いてくれた。
この青年は、同じ年でありながら、ずいぶんと大人びていた。だが、彼は高校を中退して、革命思想に人生を捧げる決心をした、若き「極左革命の青年幹部」だった。毎夜、彼の話を聞いている内に、だんだんと共産主義思想の洗脳を受け、変わっていく自分の心が怖かったが、まことは頼りがいのある友達を無くす方がもっと怖かった。
皆が寝静まったある夜、広田が言った。「資本家の奴等は銃で倒すしかない…。」 「…でも、資本家も人間だから、良心に訴えれば、いつかは労働条件も改善してくれるんじゃないの…?。」 そうまことが言うと「その考えは甘いよ。そんなもんで世の中が変わるんだったら苦労はしないさ。」
広田は、乱暴に吐き捨てて、盛んに中共の素晴しさを熱っぽく語った。「でも、中国って、とても貧しいんじゃあないの?。」 まことが、やっと言うと、広田は突然、人が変わったように大声で怒り出した。
「あんたに何が判るんだ!。見て来たことがあんのか!。」 「…。」 大声を出してしまった自分に、驚いて黙るまことを見て、少し反省したのか、急にやさしい声で弁解した。「確かに、今は貧しいかも知れんが、みんなで力を合わせて国造りをして苦労しているんだよ。」
彼は、冷静さを装ったが、それ以上、まことに一言も反論を挟ませなかった。そのあまりの気性の激しさに、気の弱いまことは素朴な、次の質問の言葉を飲み込んでしまった。
闇夜の暴走。
そんなことがあって、まことは寮の部屋に帰って広田と顔を合わせることが、何だかおっくうになった。仕事が終わるとそのまま汽車に乗って糸島の実家に向かった。裏口から突然現われた孫の久しぶりの帰宅にゼンは喜んだ。だがそれも束の間、まことは裏の物置き小屋に置いていたバイクを持ち出して、すぐいなくなった。
まことの脳裏にはゼンのガッカリした姿がよぎったが、とにかく今はバイクをぶっ飛ばしてみたかった。 そのまま乗って、気がつくといつの間にか博多の方に二時間かけて戻って来ていた。
それから度々、そっと寮を抜け出しては、闇夜の都会の中を風を切って走った。
ある夜、高速で飛ばしていた道に突然、ポッカリと大きな穴が現われた。ハンドルを取られてしまい、十メートルほどジャリ道を引きずられ、激しく地面に叩きつけられた。
しばらく気を失っていたが、やおら起き上がり、震えながらバイクを立て直し、よろめきながら寮に帰っていった。
部屋に戻って鏡を覗くと全身血だらけの姿が写っていた。こんな真夜中だというのに広田はどこか外に出かけていた。腰から大量の血が流れていた。(もう今日は遅い…)まことは畳の上に厚めに新聞紙を敷き、広げた新聞紙にくるまって、そのまま寝た。
翌朝いつものように仕事に出たが、出血し過ぎたせいでめまいがして気分が悪くなった。とうとう耐えきれなくなると、早退を願い出て病院に行った。全治二週間の入院であった。
日曜日になると、連絡を受けた母と勝江が見舞いに来てくれた。それにふだん、めったに外出しない出不精の父までが、義足を引きずりながら、まことのことを心配してわざわざ来てくれた。
手すりにつかまりながら、義足の足で、階段を一段一段と少しずつゆっくり上がって来る父の姿が、窓からチラッと見えた時、まことの心が急に熱くなった。暖かいほのぼのとした、親子の絆の情が湧いて来るのを初めて感じていた。父親に対して、こんな思いを抱けたのは、この時が最初で最後だったかも知れない。…抜粋
つづく 小 説。
「ポチよ、泣かないで。」
T、 少年時代。 おわり。 |